秋の高山祭

屋台を造った人たち

屋台の建造

金森時代における高山の城下町づくりによって財をなした富有な町人たち、いわゆる「旦那衆(だんなしゅ)」は、持てる財力を建物の造作に注ぎこんで、高山独特の豪壮な町家建築を造り上げたが、己れの資産や所得を増やすだけでなく、社会への還元に意を用いた。それは、災害時における炊き出しや旅人に対する湯茶の接待などのほか、公共諸事業への拠出等各方面への還元が行われたが、分けても祭の屋台の建造には惜しげもなく巨費を投じた。

木工と彫刻と漆塗に見せる飛騨の匠の腕

木工と彫刻と漆塗に見せる飛騨の匠の腕

一方、飛騨人が持って生まれた伝統の「技」、木工と彫刻と漆塗に見せる飛騨の匠の腕の冴えが、屋台という好対象を得て欲得を離れた名人気質でもって遺憾なく発揮されたのである。高山の町人たちの財力と飛騨の匠の秀れた技、それに飛騨人の祭に対する心意気と、元来持っている美術的素養とが融合し、更に京の文化、江戸の文化の直情的な受入れによって、恵まれた自然美の中で、高山の屋台は生まれ、優雅に華麗に格調高く造り上げられたのである。

他の屋台と競った構造装飾

更にもう一つ注目すべきは、高山の屋台のどの一つ、どの部分を見ても、決して同じものがないことである。競って他の屋台と構造装飾が異なるように工夫して造り上げたこと。しかも高山の屋台の持つ型をはみ出さないで、一台でなく並べて見ての美しさをも失わなかったことは特筆すべきものと言えよう。

それでは、前記のように富有な町民一旦那衆など)の財力のみで屋台が造られたのかというと決してそうではない。十数人から二十数人の有志が資金を出し合って屋台を造ったり、あるいは借財してでも屋台を再建してきた。

これらのことは、昔「出し合い」という言葉が使われたことからも判るし、また、借金の証文や借財の顛末を記した古文書が数多く出たことからも判る。

また、桜山屋台講という供出氏子全体を対象とした頼母子講とか、○○台屋台講という屋台組単位の頼母子講をやって、改造や修理の資金を捻出した古記録が数多く見つかった。こうした点を見てくると、屋台はやはり庶民の手によって造られたということが云えよう。

神楽台

日本で最も美しい屋台

屋台の曳き揃え

日本で最も美しい屋台、高山祭の屋台を造り上げ、今現在もその屋台を動かしている飛騨人(びと)の心意気と、厚い信仰心に支えられた優しい心根が絢燗豪華と見える屋台のその奥にある。三百年近い長い伝統による氏子共有の文化財、この屋台を通じて先祖につながり神につながりそして全国、全世界の多くの人たちにつながっていることを思うのである。