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他社に類例のない桜山八幡宮のみの格調高い祭
「祭」とは一体何であろうか
「祭」とは一体何であろうか。現今隆盛を極めている祭について、じっくり考えたことがあろうか。単なるイベントととらえたり、あるいは慣習のままに行われたりしているのが現状ではなかろうか。
祭は、祈りに始まり、祈りの崇敬の対象として神社が生まれ、その神霊を慰めるために「神賑い」の行事として祭が創められたのである。祭は賑々(にぎにぎ)しい方がよい。人人は鎮守の神様、産土の神様の大前で努めて、競って、盛大に祭をおこなうようになった。それは、神と人との饗宴であり、人と人との交流の場、庶民行楽の場でもあって、時代と共に益々盛んになってきた。
農耕の祭と同時に町民の祭として発展
桜山八幡宮の祭、いわゆる「八幡祭」は、稔りの秋を目前にした豊作祈願の祭、あるいは収穫感謝の祭といわれてきた。世に云う「農耕祭」である。この農耕祭としての見方のほかに、八幡祭には「町民祭」としての傾向が濃厚である。城下町の整備拡大が進み、経済が発展してくると、豪商の発生を見たほか町民の民力が高まり、屋台を中心とした祭への投資が積極的に行われ、農耕の祭と同時に町民の祭として発展してきた。
また、八幡祭には別にもう一つの特色がある。それは例祭には金森国主より奉行(ぶぎょう)正副二名が特派され神事祭事を見守られたことである。いわゆる「奉行祭」で、これは桜山八幡宮に限られたことであった。この奉行祭の祭式は、飛騨が幕府の直轄となってからも続けられ、祭日には代官所が休庁となり、ご神幸の行列渡御の折は、郡代自ら幣帛(へいはく)を捧げて御神輿前に参進し参拝せられたという。これは他社に類例のない桜山八幡宮のみの格調高い祭であったことがうかがわれる。
春の山王祭・秋の八幡祭を総称して「高山祭」と呼ぶように
昭和四十年代に始まる観光ブームより「秋の高山祭」と云われるように
昭和二十六年(一九五一)、全市的規模で「高山屋台保存会」が設立され、翌年、高山祭が文化財保護法による無形文化財に選定され、春の山王祭・秋の八幡祭を総称して「高山祭」と呼ぶようになり、八幡祭は、俗に「秋の高山祭」と云われるようになった。昭和四十年代に始まる観光ブームにより一層この呼び名が広まったが、われわれ八幡氏子にとっては「八幡祭」と呼ぶのが親しみやすい。
一部の解説書に、金森城主や代官郡代が、民心安定の策として祭に眼を向けさせるため、八幡祭や山正祭等を奨励したとか、あるいは、豪商の財カを衰えさせるため祭や屋台に散財させたとか、更には、大阪方の外様大名である金森家が徳川幕府に対して平和をよそおうために祭行事を盛んにしたとか、色々うがった見方がなされているが、真実は、飛騨びとが祭好きなだけ。背景に京や江戸の文化があり、飛騨の匠(たくみ)の素質がこれに拍車を掛けたことはあっても、何百年という長い歴史のなかで発展してきた祭が、政治の力によったとは思えない。ごく自然に考えたいものである。
長い行列をともなった祭礼
高山における最古の史実
それでは、近年のようなご神幸の長い行列をともなった祭礼はいつ頃始まったのであろうか。高山における最古の史実は、享保三年(一七一八)に高山陣屋の地役人上村木曽右衛門が書いた「高山八幡祭礼行列書」を天明六年(一七八六)に写した柚原三省の日記である。御榊・出し・神楽のほか屋台四台、笠鉾二台、等々、御輿を別にして四十八番の出しものが行列を飾り、総勢数百人に及ぶ大行列であったという。
当時の町並は、表参道より北は僅かでそのほとんどが南にしか無かったことが伺われ、この氏子区域を祭の行列(通り物)が練り廻った訳であるが、特に注目すべきことは、御坊坂(別院と真蓮寺の間の坂)を上り、大門町から馬場町へと進み城山の麓から城坂をだらだらと下って神明町に下り、中橋を渡って陣屋(向屋敷)前に至り、ここで代官にお目にかけ、中橋~城坂~馬場町~文右衛門坂~安川通りと通って氏子区域へ帰ったようである。それにしても、かなりの行程であり、長時間を要したことであろう。
昔の人は祭のためなら時間を忘れた
昔の人は祭のためなら時間を忘れた。その一つとして大正末期における例祭の模様を見ると、九月十五日本楽祭の日、午前二時、御分霊神輿に奉遷、午前三時、各屋台境内挽込、午前七時 庭上式、午前十時、屋台を行列に加えた御神幸出発、午後六時、本宮に御還御、屋台は点灯して縄手町に至り江名子川を挟み引払―とある。
現在、十月七日試楽祭、十月九日例大祭、十月十日御神幸祭が行われている。ご巡幸は、御分霊の鳳輦の前後に榊・獅子・闘鶏楽・大太神楽・雅楽のほか、年行司・神輿警固等の一文字笠に裃姿の人々、更には台名旗を立てた代車(屋台に代る曳車)とそれにつづく屋台組の警固の人々など数百人の行列が氏子区内をくまなく廻る。それは屋台とは別の趣き深い古式豊かな絵巻物である。
十月九日 例大祭 宵祭
提灯を付けた屋台が街を曳き巡らされる宵祭
また、夕方から提灯を付けた屋台が街を曳き巡らされる宵祭がある。昔は、祭の最後の夜を楽しみ、屋台との別れを惜しんだ。それ故にこれを「曳き別れ」と云い、一抹の哀しさも秘めていた。近年、祭の中日(なかび)の夜に行うようになってからは、フィナーレというよりはむしろ祭のクライマックスになってきた感がある。屋台を曳く人、観る人の熱気がむんむんする中で、提灯の明りに屋台中の金具や瓔珞が妖しく揺れながら光り輝く美しさは、昼間太陽の下で見たキラキラした美しさとは又違った美しさで人々を夢の世界へ誘ってくれる。
昼にしろ夜にしろ、高山祭は喧嘩祭ではない。静かで雅びな祭、それでいて盛んな祭である。
祭やわい
高山では祭の準備をすることを「祭やわい」という。祭やわいはいつ頃から始めるかというと、それは、前の年、屋台を片付ける時から始まっている。その時、もう来年の祭に思いを馳せ、飾りや道具を来年出し易いように箱に納めるのである。飛騨の長い冬が終り、春の山王祭を見ると、秋の八幡祭の氏子は心が躍るのである。
待ちかねたようにして、八月一日、祭事始祭が行われる。この神事は、昔、例祭が八月一日に行われたことに因み、この日から祭の準備を始めることを、八幡大神の神前に奉告し、例祭の無事盛大を祈るのである。
それから、神社側と氏子の責任者との打合せが何回も行われ、祭の一か月前には各屋台組の責任者を集めて打合せ会が開かれ、そのあと、各屋台組で祭常会が持たれ組内の役割などが決まる。
その頃から、神社では雅楽や獅子舞や闘鶏楽の練習が始まり、組内でも笛や太鼓の稽古が始まる。その音を聞くと、大人も子供も祭気分がたかぶるのである。
祭を統率する最高指揮官「年行司」
その年の祭事一切を司どる最高の権限を持つ「年行司」
前述のように、高山祭の特色は、何といっても俗に絢爛豪華と云われる屋台と、裃姿に一文字笠の氏子数百人を従えた御巡幸の行列ではないかと思うが、秋の高山祭である八幡祭の場合、十一台の屋台を曳き出し、数百人の警固や人足を繰り出す十八の屋台組、これを指揮し、祭を統率する最高指揮官は「年行司」である。この年行司という役は、その年の祭事一切を司どる最高の権限を持っている。この年行司が四人、それに副年行司が四人いて、副年行司は翌年、年行司を勤める。これらを勤める人の選出母体は各屋台組であり、このことも含め、祭を動かす母体はこれらの屋台組である。各屋台組には当番主任が一人づついて、この当番主任を中心に組内は固く結束し、屋台のこと、警固のことなど祭の原動力となって動く。
もちろん神社側の宮司を含めた責任役員、氏子総代の人たちは、年行司からの相談を受け、その後ろ盾となる訳であるから、こうした多くの責任ある人々と、千二百戸の氏子の神を敬い伝統を重んずる真心、それにこれらの人々の祭にかける心意気と、献身的な奉仕によって、八幡祭は盛大に行われるのである。