飛騨の匠の技
茶人殿様金森氏の城下町として栄えた高山
茶人殿様金森氏の城下町として栄えた高山は、元禄五年 (1692)に幕府の直轄地「天領」となると、それまでの上方好みの文化に加えて、江戸の文化が波のごとく入り込んで来てこの山深い飛騨の地で見事にミックスされて栄えました。高山の町人たちは町内毎に屋台を造って、春秋の祭に心意気を競いました。
高山祭の屋台の特徴
高山祭の屋台の特徴は、均衡の取れた優雅な外形と、すみずみにまで行きわたった細かな気配りで、木工・塗り・彫刻・金具・織り・染め・絵画・人形にと望み得る最高のかたちをつくり出そうとしたところにあります。こうした職人技の粋を、統合しながらプロデュースして、一台の屋台というものに仕立て上げた旦那衆の美意識と、それを大切に守り伝えて来た町人の情熱で、現在も眼前に屋台を見ることが出来るのです。
高山祭屋台会館を建設
しかし、現在23台残るこれらの高山祭屋台も年に一度の祭礼日にしか曳き出されませんでしたので、何とか遠末の方々に一年を通して実物の屋台を目にしていだだきたいという念願から「高山祭屋台会館」を建設し、4台ずつ交代で公開して、「さすが飛騨の匠の技と心」と称賛をいだだいています。
文化財保護のため照明の照度を落としておりますのでご了承ください。