屋台を支える人々
屋台の歴史は修理の歴史
屋台の歴史は、修理の歴史でもある。屋台の創建は、享保以前から天明の頃までの一七○○年代であるが、それらの屋台の多くが、享保から江戸末期までの一八○○年代前半に改造再建されており、この間概ね五十年余である。即ち、当時では屋台は五十年しか持たなかったのである。もちろん小修理が加えられてのことである。
一口に改造再建といっても、屋台の骨格を取替え新調するのであるから、これは大変なことである。栄枯盛衰は世の常、屋台創建時、羽振りがよくて巨費を投じてくれた旦那衆やかつがつ(重立町人)も、いつしか財カを失い、残された屋台組の人たちが借財につぐ借財で再建した涙ぐましい話もある。
背の高い大きな屋台蔵の出現
この短命な屋台の悲しい歴史に終止符を打ったのは、屋台を分解しないで収納できる背の高い大きな屋台蔵の出現である。飛騨の匠の腕をもってすれば、これはそんなに難しいことではなかった。他国の工人の力を借りる必要など無かったのである。今まで、分解組立によってホゾ部分の破損が多く、かつ、分散収納による破損も少なからずあったが、何よりも大屋台蔵創建の最大の動機になったのは、大火による焼失である。
享保十四年(一七二九)の九百七十五戸、天明四年(一七八四)の二千三百四十二戸、天保三年(一八三二)二回計六百十七戸という大火で、幾台かの屋台が焼失したことは間違いない。一台まるごとではなくても、分散して各戸の土蔵や納屋に収納されていて類焼した部品も多かったであろうことは想像に難くない。その証拠に、明治八年(一八七五)千三十二戸焼失の大火では、牛若台など数台が焼失、行神台も一部類焼した。このような状況から、天保大火後、弘化安政の頃から明治末期にかけて、次々と新しい大屋台蔵が造られたのである。
繊細な骨組と装飾の増加
しかし大屋台蔵ができたからと云って修理の必要が鈍くなった訳ではなく、その後も六十ないし八十年を経て改造・改修が行われている。これは、非分解式の収納になったことを機に、一層、堅牢性よりも美麗さに重点が置かれるようになり、繊細な骨組と装飾の増加によって曳行による損傷が多くなったことが起因しているものと思われる。
高山屋台保存会が生れる
昭和二十六年(一九五一)に高山屋台保存会が生れ、これを母体とする運動が実って、翌二十七年には高山祭が文化財保護法による無形文化財に選定され、更に昭和三十五年には屋台が有形民俗文化財に指定された。この指定により国庫補助を受けることができるようになり、大きく負担が軽減されたことは喜ばしいことである。
これらの屋台の補助修理は、原型復帰が原則であり、創建時の計画以外の構造変更や加飾は原則として認められないが、多額の補助のお蔭で、近年著しく修理が進み本来の面目をほどこしつつある。
神社からの補助
もう一つ、八幡祭の屋台の場合忘れてならないのは、神社からの補助である。毎年、八幡宮から多額の修理補助金が各屋台組に交付されている。これは屋台会館からの収果によるものであり、他の神社には例を見ないことである。この補助金により八幡祭の屋台の修理と屋台創建時の計画の実施が一段と進んでいる状況を見るとき、今改めて屋台会館の存在の大きさを思うのである。