起源と変遷
八幡祭の屋台・起源と変遷
高山における屋台の起源は、上村木曽右衛門の「高山八幡祭礼行列書」 (柚原家日記)に出ているのが文献の初見であり、享保三年(一七一八)のことである。この記録には、神楽のほか屋台四台、笠鉾二本、出し一本が行列に参加している。
また口伝では、元禄時代(一六八八~一七〇四)に、二之新町の風井屋長右衛門(現在の三輪宅、後に下三之町に移住)が、胴切りの四ツ車に欄干つきの箱形の屋形を仕組み、風井屋の紋所を染めた幕を張りめぐらし、上部に大太鼓を置いて、神楽囃しの社中に寄進したのが始まりと伝えられている。享保の頃には、江名子川以北は神楽台のみであったものと思われ、行列の直前の「出し」と一組であったとも考えられる。 「出し」は現今の山車(だし)とは異なり、現在の代車の台名旗の代りに神を象徴するような御神木様(よう)のものが立てられていたのかも知れない。
高山の場合、鉾と山車(だし)は後に姿を消し屋台のみが残った。京都の文化が色濃い金森家が飛騨を去って、幕府直轄の天領となってからは江戸の文化が急激に流れ込んで来、屋台の形式は江戸の影響を強く受けながら、両文化が渾然一体となり、後に、その中から高山独自の屋台が生まれた。
からくり人形が取り入れらる
天明の初期(一七八一頃)、からくり人形が取り入れられ、屋台は固定した堅牢なものから、次第に巧緻華麗な屋台へと変り、文化文政の頃(一八〇四~一八三〇)には爛熟期を迎えた。
大胆な推論を試みるならば、高山における屋台文化の創生と変遷は、高山の町を揺るがすような大事件のあとに芽生え、枝葉が伸び、花ひらいている。その最初は金森家が出羽国に移封され幕府直轄の天領となり、加えて城下町のシンボルであった高山城が取り壊された元禄八年(一六九五)の直後に、高山屋台の胎動と創生の時期がある。第二の時期は、安永二年に始まった大原騒動が大原彦四郎の死去によって終結した安永八年(一七七九)の直後、天明初期に独自の高山屋台の発生を見る。文化、文政の爛熟期は全国的な影響もあって幾台となく改造改台されるのであるが、天保三年(一八三二)の大火とその翌年の大飢饉の後では、その収束を待つかのようにして、屋台を分解することなく収納できる屋台蔵が創建されたのである。。